実は私は九州出身で、藤沢市の歴史はよく知らないのです。
藤沢市に引っ越してすぐ、近くに「耕余塾跡」という史跡があることは知りましたが、耳慣れない名前なので、正直あまり興味を持てずにいました。
しかし今回ふと思い立ち、耕余塾のミニツアーを計画してみたのです。
「耕余塾跡」から「旧三觜八郎右衛門本家」、「羽鳥御霊神社」をまわって「汲田墓地」へ。
このあたりでは有名なコースらしく、簡単な下調べでも、面白い話が山ほど出てきました。
地元の方なら、「そんなこともう知ってるよ」と思うことばかりかもしれません。
しかし、ここではよそ者の目に映った藤沢市羽鳥の歴史を、ご紹介したいと思います。
ルート①「耕余塾(こうよじゅく)跡」
まず向かったのは、家から一番近い「耕余塾跡」。
「耕余塾」とは、明治初期~中期に羽鳥にあった私塾(民間の学校)のことで、今でいう中学~高校にあたる学校でした。ここから政財界の要人、教育者がたくさん育っていったのだとか。
バス通りから住宅地に入り、細くくねった道を歩いて行くと、3分ほどで古風な門が見えてきます。
隣は小さな幼稚園。
今は小さな門と石碑が2つ立つのみですが、ここだけはしんと静かな雰囲気で、なんとも不思議な空気感です。
大きい方の石碑は風化して字が薄く、かろうじて読めたのは「小笠原先生碑」という文字だけでした。(あとで知ったのですが、この字はなんと「勝海舟」が書いたのだとか!)
ですが、そばに立ってびっしり並ぶ漢字の列を見つめていると、耕余塾ゆかりの方や藤沢市羽鳥地区の方の深い想いを感じました。
「小笠原先生」ってどういう人?
小笠原先生とは、耕余塾の初代塾長「小笠原東陽」のこと。
江戸幕府直轄の最高学府「昌平坂学問所(のちの東京大学)」で学んだあと、姫路藩江戸藩邸の学問所で教えていた秀才です。
そんな都会のエリートが地方の村に来たきっかけは、明治維新の混乱でした。
維新前後のあれやこれやで、東陽は職を転々とするはめに。
そんな彼と藤沢市にとって幸運だったのは、彼が東京で最後に教えた池上本門寺の檀林(だんりん=仏教学校)に、羽鳥村出身の「三觜治香(みつはし ちか)」という人物がいたことでした。
そのつながりから、東陽は羽鳥に招かれ、1872年(明治5年)2月に「読書院」、のちの「耕余塾」を開くことになったのです。
こちらは、明治市民センター2階の明治郷土資料室にある「耕余塾」の模型です。
ボロボロの廃寺からのスタートでしたが、小笠原東陽の人柄が評判を呼んで、名前も学校の形態も時代に合わせて変えながら、最後はこんな立派な学校になったそうです。
ルート②「旧三觜八郎右衛門(みつはし はちろうえもん)本家住宅跡」
「耕余塾跡」をあとにして、次は「旧三觜八郎右衛門本家」へ向かいました。
三觜家は室町時代から続く名家で名主、今でいう村長さんのような存在でした。
そして、東陽を羽鳥へ招き、バックアップを惜しまなかったという十三代目三觜八郎右衛門(三觜治香のお父さん)が建てた屋敷の跡が、この「旧三觜八郎右衛門本家」なのです。
「耕余塾跡」からは歩いて3分ほど。分かれ道で迷いつつ、携帯の地図を頼りに歩きます。
しかし残念!
この先に、三觜家の本家のお屋敷があったのですが、去年取り壊されていたのです!
すでに新しいお家も建っていて、代わりにあったのがこちらの真新しい碑でした。
一昨年なら、まだ日曜日に中で見学もできたのだとか。
家から歩いて10分程度の場所なだけに、残念さ悔しさ百倍です!
VRで蘇る「旧三觜八郎右衛門本家」
実は、「旧三觜八郎右衛門家住宅」は国の登録有形文化財でした。
この文化財制度は保存の義務などがないため、諸事情で取り壊されてしまいましたが、それでも藤沢市と湘南工科大学が協力してVRを作り、今も家の一部を体感することができるのです。
そして後日、そのVRを体験してきました!
場所は、辻堂駅北口から歩いて5分。明治市民センター2階の「明治郷土資料館」。
完璧に、とはいかないまでも、明治の豪農の力をひしひし感じる内容でした。
初めてのVRだし、解説付きで、とても楽しかったですよ!
だからこそ、やはり本物の質感に触れてみたくなりました。
嬉しいことに、取り壊されたお屋敷は保存され、移築計画があるようです。
移築先・時期ともに未定ということですが、リアルに出会えることを思うと、今から完成するのが楽しみです!
ルート③「羽鳥御霊(ごれい)神社」
次に向かったのは、羽鳥地区の鎮守の神さま「羽鳥御霊神社」です。
ここも住宅地の中なので迷子になりがちですが、迷わなければ3分ほどで到着します。
無人の小さな神社ながら、よくお手入れされた境内と大きなケヤキがいい雰囲気を醸し出しています。
小さめとはいえ、立派な本殿!
そして、ここの境内の裏手の道は、先にある羽鳥小学校裏門へと続きます。
おそらく小学校の授業が終わったら、子どもたちがにぎやかに境内を駆け抜けて行くのでしょう。
きっとこちらの神さまはいつも穏やかで、優しく微笑みながら住民を見守っているのでしょうね。
羽鳥御霊神社の宝もの
藤沢市には、「川名」「宮前」「羽鳥」と3つの御霊神社があります。
「ごりょう神社」と読むことが多いのですが、ここ羽鳥では「ごれい神社」と呼ぶそうです。
神社が立てられた年代や由緒はよく分かっていないそうですが、昔から大事にされてきたようで、境内では「梵鐘(釣り鐘)」と「庚申供養塔(見ざる聞かざる言わざるの石像)」という2つの市指定の文化財を見ることができます。
毎年9月の始めにはお祭りがあり、そこでは3つめの市の文化財である「小笠原東陽直筆のぼり旗」が掲げられ、御神輿が子どもたちの笛と太鼓のお囃子とともに地域を巡ります。
氏子の方にお話を聞くと、代々受け継がれてきたお祭りであることや、「ごれい」という呼び方・話し方にとても愛を感じて、なんとも幸せな気分になりました。
ルート④汲田(くみた)墓地
御霊神社の前の道を道なりに5分ほど歩くと見えてくるのが、「汲田墓地」です。
墓石を見ると三嘴家のお名前とともに、古い仏さまがたくさんいらして、見上げるほどの大きな松がその年代の深さを教えてくれます。
そして、ここには耕余塾を起こした「小笠原東陽」が眠っています。
そばには、東陽の娘婿で耕余塾の二代目塾長の「松岡利紀」のお墓も。
「松岡利紀」は小笠原東陽の名前に埋もれがちですが、東陽がなくなったあと英語や生物学などの新しい学科を取り入れて、時代に合った教育を行った人です。
学校名も「耕余義塾」と改めて、慶應義塾から何人も教師を招き、また卒業生は慶應義塾に無試験で入れるようにしたのだそうです。
後の内閣総理大臣「吉田茂」が11歳から5年間学んだのも、この時期でした。
全寮制の学校なのに、大実業家の息子吉田茂は三嘴家に居候していたのだとか。
しかし、お使いをさせられて、「途中のため池が怖かった」というかわいいエピソードも残っています。
この頃、吉田茂は子どもとはいえ、すでに吉田家の当主でした。
そんな大金持ちのおぼちゃまに、誰がそんな怖いお使いを頼んだのでしょう?
三嘴家の、あるいは東陽・利紀の教育方針が見えるようなお話です。
羽鳥の歴史は横に広がる歴史だった
ところで、この墓地では、生粋の羽鳥びとにお会いしました。
その方が、いろいろ教えてくださったのです。
吉田茂が羽鳥で取れるお芋が大好きで、大磯の別荘へ三嘴家の方がよくお芋を届けていたこと。
ご自身も大磯の別荘へ行ったことがあるということ。
その他にも、羽鳥小学校は以前麦畑だったこと。
引地川のそばに材木が腐らないように浮かべて保管する大きなため池があったこと。
今は田んぼは見当たらないけれど、昔はおいしいお米がとれたこと。
小高い場所には松林があり、それがずっと続いていたこと。
聞いているうち、耕余塾時代の景色が目に浮かぶようで、不思議な気分になりました。
そして、聞けば聞くほどいろいろ訊ねてみたくなりました。
またお会いできるといいな、と思いながらお礼をいい、私のミニツアーは終わりました。
こういう歴史は、全国どこにでもあるのかもしれません。
ただ、歴史を知っている人がまだたくさん住んでいて、資料館がすぐそばにあることは、わりとレアではないでしょうか。
まだまだここに書き切れなかった面白い話がたくさんありますし、掘ればさらに出てくる予感!
今回の30分ほどのミニツアーで、ここに住むのがめちゃめちゃ楽しくなった私です。
藤沢市明治郷土資料室
住所:藤沢市辻堂新町1丁目11番23号 明治市民センター2階
アクセス:JR東海道線「辻堂駅」北口から徒歩約7分
営業時間:10:00~15:00
電話番号:0466-34-3444
休館日:日曜日、月曜日
名称:耕余塾跡
住所:神奈川県藤沢市羽鳥3丁目10-30
アクセス:JR東海道線「辻堂駅」北口から徒歩15分
名称:旧三觜八郎右衛門本家住宅跡
住所:神奈川県藤沢市羽鳥3丁目15-3-14
名称:羽鳥御霊神社
住所:藤沢市羽鳥1062
電話番号:0466-22-9210(白旗神社:社務所を兼任)
名称:汲田墓地
住所:神奈川県藤沢市羽鳥3丁目2